本格的な人生の船出

いまだセミの声が聞こえる沖縄に行ってきた。

息子の結婚式への出席のためである。

”結婚式を沖縄でやるから、来てよ。”という、なんともあっさり
した誘いに、のこのこと出かけていった。

「沖縄でやると誰も来ないから」というのが息子の考えらしい。

案の定、集まったのが、新郎側は私と私の妻、新婦側は新婦の母親
、祖父、妹とその子ども1名、母親の友人1名の合計7名。

沖縄サミットを行ったたいそう立派なホテルがその会場だが、
結婚式のホテルスタッフの人数の方が出席者より多いという、
なんとも奇妙なものだった。

しかし、奇妙とはいうものの、「この親にしてこの子あり」という
感も否めない。

結婚とは、気障な言葉だが、恋が愛に変わることだと言われる。

恋の字を見ると心が下にある。恋には下心があるということ。

一方、愛の字を見ると心が真ん中にある。真心があるということか。

また「恋愛は華麗なる誤解、結婚は惨憺たる理解」とも言われる。

これは、結婚に限ったことではなく、人生そのものにも当てはまる。

あの二人も本格的な人生の船出に乗り出したということだろう。

やはり晴走雨読ということか

2ヶ月以上もブログとご無沙汰していた。

久しぶりに書こうと思い、ブログの原稿を開けて見たら、この前の
「横のY」という記事が目に飛び込んできた。

思わず苦笑してしまう。

どうも、「横のY」の字の下に向かう線を歩んでいたようだ。

快や利を選ぶことは、それ自体悪いことではないが、それによって
”悪いことをしたら神様が見ているよ”という感じが心の片隅にで
も生まれると、「重い砂袋の世界」に入っていくようだ。

この世界は、いわゆる精神分裂症の世界である。

弁解がましいが、こうなると書けなくなってしまう。

「最初に言葉ありき」というように、言葉には力がある。

その力とは、自分を定義する力である。

普段はあまりこの力に気づかないが、「重い砂袋の世界」では
身にしみて感じるようになる。

自分を定義する力を失うと、人に定義されるばかりの人生になる。

人に定義されるばかりの人生になると、ますます言葉が不要な
世界に入っていく。

なんのことはない、自閉症だ。

そろそろ秋風がふいて、涼しい季節がやってくる。

自閉症から抜け出すには、今のところ、原点に還って、走ること
しかないようだ。

やはり「晴走雨読」ということか。

横のYの字

ブログは最近ご無沙汰状態。

情けないことに、貯金が底をついてくると心が滅入ってくる。

人生はお金はではないと思いながら、そんな状態じゃ話にならない。

話にならなければ、話なんか書けない、という具合になる。

まあ、これも詭弁か。

世界には、食べるものが十分にない人が8億5000万人余りいる
そうだから、まだ食べられる私なんぞ幸せなのである。

しかし、正直なところ、お金には目に見えない魔力が潜んでいること
を認めざるを得ない。

実際、離婚の90%はお金をめぐる言い争いが大きな要因だと言わ
れている。

友達から贈られた一冊の本がある。

北川八郎さんという方が書いた「心にある力」という本だが、
こんなこと書かれている。

 魂の世界と欲の世界というのは、必ず横のY字型に選択肢がある
 のです。

 その時、私達がどっちを選ぶかで、大きく、人生や運が変わって
 くるんですね。

 こんなことをすると、自分の魂のレベルが下がる、というのが
 あります。

 肉の欲に従うか、魂の欲に従うかでトラブルの量が違ってくる。

 信用や義を選ぶか、快や利を選ぶか、迷う時があります。

 いつも二つの選択があってそこに必ず「横のY」の字があります。

Yの字を横にすると、上に向かう線と下に向かう線に分かれ、魂の
レベルが上がるか下がるかの分岐(選択)を表しているわけだ。

下に向かう線上に長いこといると、北川さんが言う「重い砂袋の世界」
に入っていき、心が重苦しく、荒んでくる。

この話は実にわかる、そして胸に痛いのだ。

凡人である私は、常に上向きの線を選ぶということはできないが、
少しは魂に白い風船をつける世界にいかないと・・・。

小さい頃に母親から、”悪いことをしたら神様が見ているよ”と
よく言われものだ。

それでも誘惑に負けて、駄菓子屋からキャラメルを内緒で頂戴し、
恐る恐る食べたのを、今でも鮮やかに憶えている。

どうも歳をとると、心のセンサーが子供の頃のものに近づいていく
ようである。

晴歩雨歩

”あれをやらなきゃ”なんて思っているうちに、季節が移り変わってしまったというようなことが、最近とみに多くなってきた。

前回も同じようなことを書いたが、歳をとると、やたらとこのような時間感覚が気になりだす。

「明日死ぬつもりで生きる。」 言うは易し行うは難しで、そう簡単なシュミレーションではない。

そんななか、小説家・脚本家の早坂暁さんのあるエッセーを見つけた。

早坂さんは日本人の時間感覚について次のように語っている。

日本人は自然や自然の変化に対して非常に優れた感性を持っている。

そして、四季が移ろう時間の変化を、なんとか表現しようと、詩にしたり、絵にしてきた。

そのなかで、最もわかりやすいのが俳句である。

俳句には、ざっと調べただけで2500の季語があり、時間を2500に刻んでみせたということである。

1年をこれだけ刻んでみせる民族は日本人以外にはいない。

そして早坂暁さんは、高浜虚子の「去年今年(こぞことし) 貫く棒の如きもの」という句を引用し、こんな解説をしている。

大晦日やお正月の行事にこころを奪われて、ざわついた様子の人々を見て、虚子は笑うわけである。貫く棒のような時間が流れていることをよく見なさい、と。

ここいらあたりに時間についての一つのヒントがありそうだ。

「晴走雨読」と言いながら、どうも「自然」とは縁遠い生活だったのかもしれない。

ところで、佐藤一斎の「克己の工夫は一呼吸の間に在り」というのがある。

「自分に打ち克つ」コツは、一呼吸の間の行動にある、ということだ。

ここに「死のシュミレーション」の秘訣があると思ったが、どうもその「行動」の解釈は浅はかだったようだ。

「行動」とは、合目的的なものに限らず、自然の中で驚きや発見をするというような、身体的・感覚的なものも含む、もっと幅広いものなのかもしれない。

もうすこしすると梅雨の季節である。

「晴走雨読」をいちど棚上げにし、「晴歩雨歩」もいいかもしれない。

「死」のシュミレーション

ちょっとブログもご無沙汰していた。

最近はやたらと時間が過ぎるのが速く感じてしょうがない。

多分、毎日が同じようなパターンで流れていて、驚きや感動みたいなものがないからなのだろう。

時間は記憶の差異によって意識されるものだろうから、同じようなパターンの日々の記憶は同一扱いされ、時間を知覚する役割を果たさないのだろう。

つまり、同じパターンの1週間は7日間の記憶(時間)ではなく、それはあたかも1日に集約された記憶(時間)として扱われ、これだと時間の経過が7倍のスピードに感じられることになる。

こんなワンパターンの生活なかで、毎日のランニングは、マンネリの倦怠感から自分を救ってくれる。

スウェーデンの諺に「やってくるこの毎日が人生だと知っていたら」というのがあるが、マラソンをやっている人間にはよ〜くわかる言葉だ。

走っている瞬間瞬間、”もうやめてしまおう”と考えてしまうことが多々あるが、同時に、これがマラソン(人生)なんだという実感も味わえるのだ。

特に、ゴールしたときの実感(感激)はひとしおだ。

人生の場合のゴールは死だが、マラソンの場合は42.195キロという「死」を何回もシュミレーションできる。

でもよく考えてみると、人生も24時間を「死」と考えたなら、つまり「明日死ぬつもりで生きる」なら、同じような実感が得られるのかもしれない。

この歳になって「ユートピア」とは・・・

なんとまぁ、還暦を迎えてしまった。

孔子の「六十にして耳順がう」どころか、「四十にして惑わず」さえもおぼつかない。

いやいや、それどころか「三十にして立つ」さえも心もとないのである。

若い頃は、「独り立ち」がそれほど大変なことなのか、つゆとも思わず、余り考えもしなかったものだった。

しかし、どうも年をとるにつれ、とみに最近は、この言葉は強烈に我が身に迫ってくるものがある。

経済的に心もとない現状のせいかもしれないが、どうも根本のところは、自分の精神というか、人間力の脆弱さにその原因があるようだ。

その脆弱さは何かと考えたみた。

若い頃は、”俺は人とは違うんだ”と思いながら、どちらかというと独立独歩の精神で生きてきたつもりだが、実は、そこに落とし穴があったような気がする。

”俺は人とは違うんだ”という意識が、逆に他人に対する自分ということだけに意識を向かわせ、結局は、自分自身を客観的そして現実的に見つめてこなかったせいかもしれない。

そうであれば、独立独歩と言いながら色々と暗中模索してきたつもりが、その真相は、逆に、「人の猿真似」という他人依存の人生の可能性が大なのである。

「教えて貰ったものは何にもならない」と誰かが言っていたが、まさにここいら辺りに脆弱さの原因がありそうだ。

ドイツの社会哲学者のマンハイムは、イデオロギーとユートピアは、ほとんど差がないが、強いて言えば、イデオロギーは現実を隠蔽する方向に働き、ユートピアは現実を暴露する方向に向かっている、と云っている。

マンハイムの言葉を借りると、少しもったいぶった言い方になるが、私はイデオロギーというものを独立独歩の精神とはき違えていたような気がしないでもない。

どうも、「独り立ち」するには、自分の心と行動のなかに自分の「ユートピア」を創り出す作業が必要なようだ。

この歳になって「ユートピア」とは、えらい事になってしまったものだ。

死んで花見が咲くものか

私は、妻に向かっては「オカアサン」と呼び、他人には妻のことを「カミサン」という。

よく考えてみると面白い。

人間関係とは自分の在り方を選択する機会であるとも定義できるから、私は家庭では「お父さん」というポジションが居心地が良いのだろう。

カミサンの語源は御上(おかみ)さんだが、何をやっていても全てお見通しのようで、一家の「御神さん」という感じもしないではない。

しかし、なんとまあ、人間は神という便利な概念をつくったものだ。

話の色合いがだいぶ変わってしまうが、神は人間にほかならぬといったのは、かの有名なマルクスに大きな影響を与えたフォイエルバッハである。

フォイエルバッハの言い分はこうだ。

 人間は、現実的には、個人主義、利己主義に走っているが、それだけに
 彼等は自分達に欠けているもの、すなわち人間本来の姿である共同性に
 あこがれ、それを追い求めるようになる。

 こうして作りだされたのが神であり、宗教であり、とくにキリスト教
 なのである。

 不断の日常生活では他人をけおとし、利己主義に走る個々の人間は、
 こうして、日曜日には教会におもむき「汝隣人を愛せよ」の言葉を耳に、
 神にひれふするのである。

 要するに隣人愛等々、それまで神の属性とされていたものは、人間本来
 の姿である共同性が実現されていない為に、人間はそれを神化し、
 崇拝し、それにしばられることになってしまったのである。

 これが宗教の人間自己疎外の構造である。

フォイエルバッハは、結論として、人間にとって神は人間にほかならぬことを自覚し、この地上に愛を基礎とする人間共同体を実現することだ、というのである。

いま起きているイスラム世界とキリスト世界との争いを見ていると、フォイエルバッハの見解は、これらの争いの根本的な解決の糸口を与えてくれるのではなかろうか。

ジハードとか十字軍とか、いわゆる聖戦に殉ずることに一種の潔(いさぎよ)さを感じないこともないが、その本質は現生からの逃避であることは否めない。

親鸞は、この世から往生が開始されるとして、この世で信心を得た者は、その時から往生する身と決定して、その地位から退かないという、「現世不退転」にこだわった。

神は人間にほかならぬなら、神ががりになるための必要不可欠な条件は、何にもまして「生きている」ことであるのは間違いない。

「死んで花見が咲くものか」である。

「神の許しを得て、なんちゃらかんちゃら」というよりも、「カミサンからOKをもらって、なんちゃらかんちゃら」という生き方のほうが、どうも世界平和にとっても良さそうな気がしないでもない。

しかし、その生き方のほうがシンドイことを覚悟しなければならないだろう。

『雨ニモマケズ…』は観音様の詩

私の部屋には木彫りの千手観音像が置いてある。

正しくは祀(まつ)ってある。

ただ置いておくだけは『飾る』と言い、毎日何らかのお供えをあげることが『祀る』というらしい。

観音様は、一般には観音菩薩、観世音菩薩、観自在菩薩と呼ばれ、インドのサンスクリット語「アバローキテーシュバラ」の漢語訳とされている。

いろいろの能力を持っている人で、広く世音を心で観、心で聞いて、苦しんでいる人、悩んでいる人を救うという誓いを立てた菩薩ということである。

ある雑誌に書いてあったのだが、中国の民話によると、観音様を家来に持つ阿弥陀仏様がこの世を作ったのだそうだ。

阿弥陀仏様はこの世を単に作っただけで、この世を上の世界から操作して変えようとしないらしい。阿弥陀仏様は来世が担当だからである。

それを見かねてかどうかわからないが、今世の混乱を誰かが面倒を見なければならないと勇んで買って出た一人の凛々しい男性、

「私が女に化けて、世直しをしてきます」

これが観音様の正体らしい。

なにせ上の世界では、仏たちが”ホットケ”とばかり毎日ゴロゴロと怠惰な生活をしているらしく、しかも男しかいないらしいのだ。

もしかしたら観音様は、こんな生活に飽き飽きして、上の世界を飛び出したのかもしれない。

というわけで、観音様は、希望を胸に秘め、蓮の花に乗ってこの世に降りてきた。

下を見ると妊婦がいた。何を思ったか、彼は蓮の花から、いきなり妊婦のお腹に飛び込み、女として生まれ出たのである。

この女の子は妙善と名づけれれ可愛い女の子に成長していくが、妙善の人生は悲しいかな悲惨な戦いの日々なのだ。

ところがある日、私には何故だかわからないが、特殊な壷を得てそこに突然水が入ってから超能力が持つようになる。

それ以来、妙善の祈る姿は指を丸めたポーズになり、正真正銘の観音様になるのである。

長くなるのでここでこの物語の話は止めるが、一つだけ気になる妙善の言葉がある。

浮気相手の男に奥さんが殺され心がボロボロになっていた医者が、「私は出家する」と妙善に言ったとき、「出家してはいけません。入世してください」と妙善が言った言葉である。

別にたいした言葉ではないが、ここに観音様の観音様たるものがあるような気がする。

観音様は、最初は物見遊山でこの世に下りてきたかもしれないが、最後には苦しいこの世に生きる喜びと嬉しさを見つけたのだろう。

宮沢賢治が生涯に残した多くの童話は、『山川草木悉皆成仏(さんせいそうもくしっかいじょうぶつ)』(この世に存在する全てのものは、生まれながらにして、仏になる本性を具えている)という仏教の世界観が背景にあるが、まさに『雨ニモマケズ…』は観音様の詩なのだ。

この観音様にまつわる民話を紹介した人も云っているが、「魂磨くより顔磨け」というように、内面は人生の苦悩の原因ではないのかもしれない。

「正解」はひとつだけでなく、もし悟りというものがあるとすれば、それは人の数だけあるような気がしないでもない。

実のところ真相はよく解らないのだが、私の部屋の観音様は、原因を内面に求めたキリストや釈迦の亡霊に取りつかれている私に対して、やさしく微笑みかけながら手を合わせているように見えてきたのである。

ほんとうの神技とは

昨日テレビで世界水泳シンクロの中継を見た。

私も中学生のときに体操部に属し、「団体体操」もやっていたので、シンクロの難しさがよくわかる。

(注)団体体操:複数人で構成されチームが体操技(床運動)と
        その同調性を競う競技

ロシアのシンクロデュエットには驚かされた。

驚異的なスタミナもそうだが、あの一糸乱れぬ同調性はどかこから出てくるのか。

ところで、シンクロとはシンクロナイズドスイミングの略称だが、シンクロというと私の頭には別の言葉が浮かんでくる。

それはシンクロニシティ(synchronicity)である。

これは、出来事の生起を決定する法則原理として、従来知られていた「因果性」とは異なる原理として、カール・ユングによって提唱された概念で、共時性(きょうじせい)とも言われる。

”コレとアレとはひょっとして関係しているのじゃないか”と思うが、その関連性にはなんらの因果関係がなく、ただ暗示的な関連性みたいなものが残る、というやつである。

量子力学の世界では、素粒子のふるまいに作用する「内蔵秩序」という仮説がある。

物質のどんな一部にも全体についての情報が含まれていて、物質の最奥部(素粒子)においてもそのように、やがて違うものになって現れるべき情報たちが独自のしくみで内蔵されているのではないか、というものである。

ユングは、このような隠れた内蔵秩序というしくみは、実は人間の「心」にこそあてはまるのではないかとみなしたのである。

たしかに、宇宙の起源を考えると、最初には物質しかなかったわけで、人間という有機体が持つ「心」も、そもそも物質を起源としていると思うと、頷けるところがある。

ユングは「内蔵秩序」のようなものが、これもユングが名付けた「プシコイド」という元型状態の中にひそんでいるのではないかと考えた。

この「プシコイド」から生まれてきたのが「集合的無意識」という考え方であり、そのイメージが東洋の曼陀羅(マンダラ)である。

あのロシアのシンクロデュエットの見事な演技は、まさに曼陀羅なのだ。

もちろん彼女らは水中で意識的に同調を図っているだろう。

しかし、「内蔵秩序」という物心未分の状態から現れ出る、物心両用の状態がシンクロニシティとなって彼女らの演技に拍車をかけているのではないだろうか。

ひょっとしたら、このことをほんとうの「神技」というのかもしれない。

友達からのメール

・・・・調子の悪いときは、考えることを完全に停止して、ひたすら心を静めてみてはどうでしょうか?

仏教でもヨガでも老荘でもキリスト教でも、人間のありとあらゆる苦悩の根源は、実は幻影に過ぎない小さなエゴ(私・私のものという意識)に執着するところから来るといいます。

これは私の友達からのメールにあった一節である。

そして次のように続くのである。


そして、ものを考え続ける限り、人間はエゴから解放されることはありえないとさえ言います。

なぜなら、「私」という主語なしにものを考えることはできないからです。

ヨガなどでは、ものを考えた瞬間に「私」という幻影が生まれ、それに続いて「あなた」「彼ら」そして「それ以外のもの」という幻影が生まれるといいます。

ものを考えずに仕事を続けていくのは至難の業のように思いますが、私の尊敬する賢者たちはそれは可能だと言います。

私にもそれができるようになったら社会復帰を考えるかもしれません。


彼の心境が痛いほどわかる。

世間との触れ合いが少ないと、面白いことに、逆に、苦悩の根源は「エゴ」だということが、悲しいかなしみじみと分かるのだ。

今日は、この友達のメールの続きを紹介した後に、朗らかに山河を駆け巡ることにしよう。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

「老子」のなかでもとりわけ好きな章があります。下に私の拙訳を載せておきましたので時間があったら読んでみてください。

自分についてほとんど語ることのなかった彼がぽそりと漏らした自画像的な文章です。

二千数百年前の中国の俗世間に埋もれて生きた彼の心情が私には痛いほど伝わってきます。

【第二十章】

学ぶことをすっかりやめたなら、何の思い煩いもない。
 
ハイと言うのとアアと言うのと、どれほどの違いがあるというのだろう。

世間で美しいと言ったり醜いと言ったり、それもまたどれほどの隔たりがあるというのだろう。

人々の慎むところは、こちらも慎まないわけにはいかないが、茫漠として、さてどこまで慎んだらよいのかきりがない。

多くの人は浮き浮きと楽しそうにして、まるで豪勢なパーティー招待客、春の日に高台に上った物見客のようだ。

わたしだけはひとり、ひっそりと静まり返ってなんの動く気配も見せず、まだ笑うこともできない赤ん坊のようだ。

しょんぼりとしおたれてまるで身の置き所もないようだ。

人々は誰もが有り余るほど持っているのに、わたしだけはひとり、何もかも失ってしまったかのようだ。

愚か者の心だな、私の心は。のろのろと間が抜けていて。

世間の人々はきらきらと輝いているのに、わたしだけはひとりぼんやりと暗い。

世間の人々は利口でてきぱきしているのに、わたしだけはひとりもやもやしている。

ゆらゆらと海原のようにたゆたい、ひゅうと吹きすぎる風のようにあてどない。

人々はみな有能なのに、わたしだけは愚かで野暮ったい。

わたしだけが変わり者で、そして、母なる「道」をじっと大切にしているのだ。 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

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